2022-11-16 宛名の定まらない往復書簡のようなこと
今のSNSの、どんな人でもそこで自分なりの表現をしようという場も引き続き面白いとは思うのだけれど、同時に辟易したり疲れたりするような感覚もあって、昔の、直接は繋がらないけれどお互いの日記にトラックバックを送るような、または「このブログ/この記事が好き」と文中で言及するような、ちょっと遠くはあるけれどもう少し深いつながり、もう少し時間をかけて提出するようなあたりのやりとりをしたいような気がしている。Twitterという場所が危うくなるかもしれないという話を聞いたことも一因かもしれない。
とはいえ私は自分のことを信用していない。ものごとを習慣にすることも苦手だし、辛抱が足らず飽きっぽいし、忙しいと時間や日時の感覚も分からなくなる。同時に「ひとが関わっているからちゃんとやろう」と思うと自分の生活を削ってまで打ち込んでしまうような不器用なところもある。だからリーダーとして何かを呼びかけ継続するのには向いてない。
とはいえ、自分がほんとうに心を動かされるもの以外には時間を使いたくないという厄介な人間でもあるのでなかなか誰かの提案に乗れないし、また逆に、他人は私の提案などつまらないと思うに違いない、現に私のアイデアにはまだ抜けがいっぱいあるし…などとうじうじしている間に情熱に手垢が付きすぎてなんだかわからないようになってそのまま放り投げてしまうことになる。
私が書きたいことってなんだろうな。
そんな大したことじゃない。
自分の思い出話とかあるときの体験談とかじゃなくて、もっと小さなささやかなもの、多分写真を撮っていたときも同じだった。自分の目に触れたけれどもう二度とそれと同じことはやってこないかもしれない、そのくらい小さなことなんだけど、だからこそその小さな驚きや揺れの中に潜って記しておきたい、残しておきたい。
だから私の書くものにも撮るものにも踊ることにも「テーマは何だ」と問われると答えるのが難しい、「名もないもの」とか「儚いもの」みたいな言葉では表したくないし。どっちかというと「そのできごとに対して、人間じゃなくて蟻みたいに小さくなって見てみた感じで表したい」というただそれだけなのかも。その時のことをことばに変換するそのこと自体がただ自分の喜びなのかもしれないとも思う。読み返したりしないのもそのためかもね。
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とはいえ、まったく自分の書いたものが他人に伝わらなくても良いとは全然考えていない。色んな人が読んでくれるといいなーとは思っている。別に大層な感想を抱かせるような文章じゃないこともわかっている。なのに、なにをしてほしくて、読んでほしいんだろうね。
まあ、踊りを見せるのと同じだ。私をきっかけにその人の心が揺れるようなことを体験してくれたらいい。私の文章に心が揺れなくてもよくて、揺れるための下地が出来たら良い、みたいな感じ。
ああ、そうか。
現実世界と、ある特別な状態の、橋渡しをしたいのかもしれないな。
踊る時、私は最初にじっとしている時間を長く取る。それは現実の生活から、踊りの世界の時間に観客を切り替えるためで、多分そういうことをやりたい。
だから私の文章は直接すごいものじゃなくて良くて、なんか素直になれたり、ちいさな震えがあったり、世界を鮮やかにみるための準備のようなものだったら良いと考えているのかもしれない。
ああ、そうだな。
書いていて初めてきづいたけれど、こんなにすごいはっきりした目的があった。
これは #あとで もうちょっとしっかり考えておきたいな。 ー
誰かが書いたら、そのことに揺り動かされてまた誰かが書く、でも直接の往復書簡とかじゃなくて、ただ勝手に球を受け取って、世界を広げる。そうしたらまた誰かが勝手に拾って世界を広げる。
そんなやりとりがしたいなあ。
別にTwitterでもブログでも、手段はなんでもいいのかもしれない。
場所を作る必要もないのかもしれない。
ただ深めていきたいのかも。一緒の階段を降りる必要はないけれど、次から次へと話題を跳びうつることはやめて、自分や誰かの足元のことを感じたいのかも。
「日記」に興味があるのはそこに繋がりはするんだけど、やっぱり所詮そこにある共通項は「今日である」ということだけで、それはそれで楽しく素敵なんだけど、もうちょっと突っ込んだこともしたい。
「アパートメント」は本当はそういうことをしたかったんだ。ご近所同士話したり、ときどき共同のホールで集まったり、回覧板を回して共通の問題についてそれぞれが語ったり。
私がしたいことは、こうやって説明しようとするとなんだかただふわっとした、緩い繋がり、みたいなことに近接しちゃうな。もっとがっぷり四つな感じなんだけど実際は、でもそれを自分でうまくまだ認識できてない。